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今日の箇所はこの世の中でよく経験する試みについて教えています。
その一つはお金のことです。貧しいことはとても不便に思えます。特にこの時代はお金で評価する時代です。それで、お金がない人生は失敗した人生として評価される時代です。
このような人生に対して、聖書は「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りなさい。」と語ります。
あなたには自慢することがありますか。何を自慢しますか。
何よりも神のかたちによって造られたことを誇るべきです。
イエス・キリストを信じると神の似すがたが私のうちに新しく形づくられます。
そのような人は自分で損になることを知っても善を選ぶことができます。
私たちには神のかたちだけではなくて、栄光があります。
その栄光はイエス・キリストの救いの栄光です。私の存在がどれほど尊いものであるか、主は語ります。
一人の魂はこの世に勝ると語り、神様は私たちをこの世の諸々の何より大切に思います。
何故でしょうか。私たちのために独り子イエス・キリストを犠牲にしたからです。
皆さん、あなたは経済的厳しさによって神の祝福からはずされ、役に立たない者だと思っていますか。
神様はあなたを神のかたちに造り、あなたのためにイエス様を犠牲して罪の裁きとのろいから救ってくださいました。その救いの輝く栄光をご一緒に味わいませんか。
貧しさとは別の意味でお金の試みもあります。それは反対に富んでいる場合です。
富んでいる人は、私の安全がお金から来ると思いがちです。お金が財布の中にたくさんあると心が強くなります。
したがって、経済的余裕が私たちを堕落に導く毒になるときがあります。
また富んでいる人は高慢になり安いです。教会の中で富んでいる人、大きな貢献をした人が謙遜になると教会は平和です。
ところが問題がある教会をよく見ると貢献した人が害になっている場合がよくあります。
尊敬される人が高慢になって問題の中心になっています。
富んでいる人はいつも低くなることを考え、サタンが攻撃するところがないか自分を省みましょう。
貧しさによって自分を虐待していないか省みて、神様が与えてくださる豊かを信仰の目で見ましょう。
主の兄弟ヤコブは散っているキリスト者に苦しみの中で「知恵」を求めるように勧めます。
それは艱難に遭遇する聖徒がいつも真の祝福と成功を生み出すことができる知恵です。
聖書は私を完全な人格に成し遂げる恵みを与える知恵、この知恵を求めるように勧めます。
知恵は「すべてのものごとと事件を神の目線から見ることができる力」だと語ります。
その知恵を会得してどのように味わうことができますか。
第一に、私の弱さを知ることです。私の弱さを悟ることができなければ上からの知恵を求めないまま歩むからです。
知恵を持つことは知恵がない私を自覚することから始まります。
第二に、知恵を与えてくださるのはどのような方であるかを知ることです。
その方は「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」神様です。
その神様に私たちは知恵を求めます。
求めるときにはただ信仰によって疑わずに求めることです。
信仰は神の人格とその約束のみことばに頼って変わらない心です。
その約束を完全に握るのが信仰です。
アブラハムは100歳になっても尚、息子を与えてくださることを疑わず神の約束を固く握って信じたと聖書は記録しています。
私たちは口で信じますと告白しますが、信仰によって求めることをしない弱さをもっています。
聖書は信仰がない人について、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」と記録しています。
主は私たちが信仰によって礼拝をささげ、祈ることを待っておられます。
艱難の時に「主よ!この試練を乗り越えることができる知恵を与えてください」と祈りましょう。
そうすれば、その問題だけではなくて、どんな問題でも解決できる根本的知恵を与えてくださいます。
われらの神様は知恵を与えてくださることを喜ぶお方です。
著者ヤコブが散っている12部族を兄弟たちと呼んでいます。
当時イエスさまを信じることは苦しみを意味していました。
お墓に隠れて信仰を守っている彼らに兄弟と呼んでいます。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。」と語ります。
「思いなさい」と勧め、「知る」ように勧め、「忍耐を完全に働かせる」と勧めます。
考えは私たちを大きく変えます。どうして試練に会うとき喜びと思うことができますか。私たちは受ける試練がもたらす結果を確信するときこそ喜びと思うことが可能です。
使徒ペテロは信仰の試練は「精錬」であると表現します。
純粋な信仰を生み出すためには熱い火で不純物を取り除くという精錬の過程は欠かせないものです。
そのためには忍耐が必要です。
忍耐はもっと進んで乗り越えるという意味もあります。
ローマ皇帝ネロはキリスト者を迫害して大虐殺したことで有名ですが、彼が苦しみを受けて死んだキリスト者たちの顔の微笑を見て「なぜ」と叫でいるのを思い出します。
その苦しみによって完全な者になり、輝く信仰者になる確信の上にそのような試練に耐えられ、それを喜びと思うことができます。
「完全に働かせる」ことは神に向かって信頼と希望をおいて最後まで忍耐を全うすることです。
私たちは神の絶対主権について信じます。
しかし、「完全に働かせる」ことを命じることは人間の責任があることを意味します。
神の主権と人間の責任が緊張を保つ時、信仰のバイオリンが美しい音を出すことができます。
忍耐を全うすると成熟した人になります。
旧約では完全ないけにえを捧げました。それは欠けたところのない家畜を捧げることを意味します。
それは私たちにそのような人格を持つことが求められるということを意味します。
石炭とダイヤは同じ元素でできました。しかし、どのような苦しみに耐えるかによって全然違うものになります。神は人間を苦しみと試練の中で輝く人生に変えてくださいます。
今試練にあっていますか。
その試練は私の人生を輝く人生に変えてくださる神の祝福です。
今年は「ヤコブの手紙」をともに分かち合います。
救い主イエスさまを信じる人が、どのように人生を歩むべきかを教えるのがこのヤコブの手紙です。
「ヤコブの手紙」はヤコブが記録しました。しかし、聖書にはヤコブという名の人物がたくさん記録されています。
その中でこの手紙の著者ヤコブは次の3人だと考えられています。
先ず、はじめにゼベダイの子ヤコブです。彼はイエスさまの弟子で、イエスさまと3年間共に過ごしました。
使徒12章を見ると、彼はユダの王ヘロデによる処刑で弟子の中で初めての殉教者として記録されています。
次の一人はアルパヨの子ヤコブです。彼についての記録が少ないのですが、使徒1章を見ると120人が祈るときそこに共にいたことを知ることができます。
最後の一人は、イエスさまの弟のヤコブです。弟ヤコブはイエスさまの生前、兄イエスが救い主であることを信じませんでした。
それでは、彼がどのようにこの「ヤコブの手紙」を記録したのでしょう。
イエスさまが復活なさって弟子たちに現れるとき、弟ヤコブにも現れました。
このヤコブは、初代教会に福音と立法の問題が生じたとき、その問題を解決するために指導者たちを集めて会議を推進しました。
それで、このヤコブがこの手紙の著者だと考えられています。
さてこの手紙は誰に送られているでしょうか?
「ヤコブの手紙」の冒頭では「国外に散っている十二の部族へ」と記録されています。
その当時はイスラエルの部族が解体し、十二部族としては組織として存在していません。
それでもヤコブは十二部族へと記録しています。それは霊的新しいイスラエルを意味しています。
この手紙の受け取り者は、2千年前の当時、イエスを信じることですべてを放棄して国外に散って行った人々です。
現代に生きる私たちも散っていく訓練が必要でしょう。
初代教会は散って行った彼らによって福音が伝えられていったのです。
「ヤコブの手紙」には「完全」という言葉がよく出てきます。
この手紙は私たちクリスチャンが、救い主を信じた後もなお完全に至らない理由について語ります。
それは
@慌てることが完全になることをさまだけ、
Aみことばを行わないことが我々を完全に至らなせいと語ります。また
B舌を制御することの大切さです。人間の舌は短いものですがそれは何よりも力があります。
C争いと欲によって私たちが成熟するキリスト者として歩むのをさまだけられると語ります。
私たちはイエスさまを主として受け入れています。
主は私たちに「主のように完全であれ」という高い目標を与えられました。
その高いレベルにいたる道をヤコブの手紙が示してくださいます。
今年も私たちの信仰が主と主のみことばに従順することで成長することを願います。