2008年2月17日  「愛の共同体」 ヤコブ手紙2:1〜13

ヤコブ2:1  この世の誰でも願うことがあります。
それは幸せです。
その幸せのために私たちは二つを点検する必要があります。
その一つは言うまでもなく家庭です。
神様は私の幸せのために家庭という素晴らしい祝福の場を与えてくださいました。

もう一つは、礼拝の共同体である教会です。
私たちは教会生活を正しくしているかどうか点検する必要があります。
神様は私たちの人生に祝福を与えるためにこのように二つの機関、すなわち教会と家庭を与えてくださいました。
家庭を優先してもかまいません。しかし、ある意味で私たちの魂がいやされ豊かになるためには、教会が祝福の根源だと言えるでしょう。

ヤコブ2章では教会にある主の兄弟の関心、交わりについて紹介します。
まず、お互いに偏見を持たないように要求します。
「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」(ヤコブ2:1)。
私たちは人を外見で判断し易いですが、しかし、主は兄弟たちに対して偏見をもって判断してはいけないと語ります。
私たちが「りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい』と言う」(ヤコブ2:3)。これが問題です。これを聖書は悪い判断だと言います。
「愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか」(ヤコブ2:5)。
神様は私たちが無視するその人、軽蔑するその人のために一人子イエス・キリストを与えてくださいました。
彼らは主イエス様を信じることで無視されました。
損害を受け、家から追い出されました。
ところが、あなたがたは教会の中で、外見上豊かに見える人に親切にする。その人の中に生きている信仰は見ないで、その人の内面の魂は見ないで外的に飾っている飾りと美しい服装に心が奪われている。
「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』と最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」(ヤコブ2:8)。

愛する皆さん、私たちは隣人に対して関心がない心、偏見を持つ心ではなくて、愛の心で接したいものです。
特に私の気に触る人にこそ憐れみの心で接したいのです。
「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ2:12〜13)。

皆さん、もし自分の感情に逆らって憐れむことができない人がいるならば、その人こそ本当に私の憐れみを必要とする兄妹です。
私たちは私の心にかなう人だけを愛することをせず、意志的に愛する決断をしましょう。
その愛を全うしていきましょう。
私たちが主にあって一つになるのは自然にできるのではありません。
私たちが力を尽くして努力する必要があります。
その時こそ私たちは愛の共同体として一つになります。

2008年2月10日  「完全な知恵」 ヤコブ手紙1:19〜27

ヤコブ1:19  私たちはどうしてあんなことに騙されるのか不思議に思うときがあります。
私たちにはこの世に騙されない知恵が必要です。
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」 (ヤコブ1:22)。
私たちが騙されやすいものが二つあります。
一つはサタンの策略です。サタンはアダムに神のようになると言って神が禁じる実りを食べるように誘いました。
もう一つは、自分の思いです。私が信仰を持って教会の礼拝に参加し、聖書を読み、祈りをするので、私はキリスト者なんだと思います。
しかし、主イエス様は「わたしはあなたを知りません。」と言うかも知れません。

完全な知恵とは何でしょう。
「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」 (ヤコブ1:19)。
神の「真理の言葉」を聴くのに力を注ぐことです。
また「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れ」ることです(ヤコブ1:21)。
神の「真理の言葉」を聴くのに力を注ぎ、心にすなおに受け入れるとき、御言葉が心に植えつけられ成長します。
ところが、その反対は何ですか。言葉をわがままに語ることです。
この知恵がないときに言葉がわがままになります。
語る時には気をつける必要があります。私の心の中に「真理の言葉」が支配するようにすなおな心で主の御言葉を受け入れます。

 神の御言葉を受け入れることこそ知恵です。
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」 (ヤコブ1:22〜24)。
真の知恵は御言葉をすなおに受け入れて従順することです。
みことばを自分の人生に適用する時こそ活力が出ます。
みことばを聞いて従順する人は岩の上に基礎を置く人です。

また、ヤコブの手紙は積極的知恵、バランスある知恵について語ります。
それは神の前で孤児ややもめに関心を持って省みることです。
ヤコブの手紙を受ける彼らも助けが必要な人々でした。
ところが、彼らに孤児ややもめに対して関心を持って省みるように勧めます。
私たちは恵みだけを求めるのではなくて、私たちの助けの手を必要とする人々をも省みる均衡あるキリスト者になりたいです。
主のみことばに従順する知恵は、従順する中で均衡を維持する従順です。

2008年2月3日  「テストと賞」 ヤコブ手紙1:12〜18

ヤコブ1:12 神はヤコブの手紙という聖書を通して、さまざまな試練を受け苦しんでいるキリスト者に慰めを与えてくださいます。
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」 (ヤコブ1:12)。

人生の試練はテストのようなものです。テストがキリスト者を挫折させることはできません。
テストは信仰の精錬です。テストは私の信仰がどのようなものかを明確にしてくれます。
私から取り除く必要があるものを示します。
テストに合格すれば賞を受けるように信仰の試練に耐え抜いて、神に良しと認められた人にはいのちの冠が約束されています。

他の聖書では「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と記されています(ヘブル11:6)。

 「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」(ヤコブ1:13)
試練についてもう一つ考えられるのは誘惑です。誘惑のときに私たちはよく責任を転嫁しようとします。
多くの人は神に責任を転嫁します。アダムがそうでした。アダムが神の命令に逆らって罪を指摘された時に、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」といいました(創世記3:12)。
このようにいつも問題に出会う時、私から原因を探すのではなくて、神に責任を転嫁して問題の解決をもっと難しくします。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」(ヤコブ1:14)
私たちは自分の欲によって誘惑されます。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)
心に欲を許すと罪を犯します。罪が私たちの中に成長して死を生みます。
ですから、神から分離、離れることを死といいます。「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」(ヤコブ1:16)

 「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)
神はすべて、求める人に豊かな知恵を与えてくださる方です。私たちは神の子供です。
ですから、神は私たちのためにもっとも良いもので満たし、最善のことを備えてくださいます。
神は栄光と尊厳を永遠に受けるのにふさわしい方です。
その主が私たちを緑の牧場に導いてくださいます。あるときは、死の谷の陰を歩くこともあります。
しかし、その時こそ神は私たちの信頼の的です。
あるときは寂しさによって涙を流すこともありますが、その時こそ主が私の一番近いところにおられます。
主は哀れみの御手の中で私の人生を導いてくださいます。